国難レベルの食料危機、政府はなぜ動かないのか?

【論説感想】食料は「命の安全保障」──憲法と農業を軽視する日本への警鐘


5月3日、憲法記念日に発表された論説「食料と憲法 農業こそ命の安全保障」は、私たちの生存そのものに直結する重大なテーマを突きつけてきました。この論説は、単なる農政批判ではありません。これは、日本の国家戦略の根幹を問う警鐘であり、国民一人ひとりの“食の尊厳”を再認識するための真摯な呼びかけです。

率直に申し上げて、私のような経済や政治の戦略的視点から現状を捉える者にとっても、この論説が提起する問題は極めて核心的であり、日本という国家の未来を根底から揺るがしかねない重大な構造的リスクを孕んでいます。


目次

■ 世界の潮流は「保護主義」へ──歴史は繰り返す

まず、論説で最も危機感を伴って言及されていたのが、「トランプ関税」に象徴されるような保護主義の拡大です。米中の経済覇権争いは単なる通商問題にとどまらず、グローバル・サプライチェーンを破壊しかねない構造的な亀裂を生み出しています。

世界貿易機関(WTO)の機能不全、G20における米国の孤立化、そして自国第一主義の台頭――。これらはまさに、1930年代の世界恐慌前夜に酷似した歴史の再来を彷彿とさせます。

歴史を知る者にとって、この構図は決して他人事ではありません。自由貿易体制の瓦解は、グローバル経済の崩壊を招き、その余波は小国である日本に容赦なく襲いかかります。


■ 食料安全保障は「国防」である

食料の問題は、エネルギーと並び、国家にとっての“命のインフラ”です。論説が指摘する通り、日本は農業資源に乏しい「資源小国」であり、食料の多くを輸入に頼らざるを得ない構造にあります。この事実は、地政学的リスクと深く結びついており、単なる農業政策の話では済まされません。

ウクライナ危機が世界の穀物供給にどれだけの影響を与えたか、記憶に新しいところです。ロシアの侵攻によって、小麦やトウモロコシの価格が急騰し、途上国では飢餓が深刻化しました。これは他人事ではなく、食料を輸入に頼る日本にとっても、明日の現実です。

だからこそ、私は声を大にして申し上げたい。

「食料の安定供給」は、すなわち国家の安全保障問題であり、“農”は国防そのものなのです。


■ 日本農業の崩壊は、地方の崩壊と直結する

論説の中で「米は農村の生命線」という表現がありましたが、これは決して誇張ではありません。日本の農村は今、高齢化と後継者不足により、かつてない速さで崩壊の危機に直面しています。農業は単なる産業ではなく、地域社会を支える「生態系」です。

この生態系が崩れればどうなるか。

地方経済は衰退し、都市への過密集中が加速する。災害時の食料自給体制は機能せず、いざというときに「国民が飢える」国家になる。これは大げさな話ではありません。現実に、国内の食料自給率は約38%(カロリーベース)。この数字が何を意味するのか、多くの国民はまだ実感できていません。

「命を交渉カードに差し出すな」という農家の叫びは、まさに真実を突いています。


■ 憲法25条と「生存権」──その重さを再考せよ

論説が非常に巧みに結びつけたのが、「憲法」と「農業」の関係です。憲法25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明記しています。この「最低限度」の生活に、食料が含まれていないはずがありません。

つまり、食料安全保障とは、経済政策や農政の枠を超えた「憲法上の義務」でもあるのです。

これは法的な理屈であると同時に、道徳的な命題でもあります。食べるものがなければ、人は文化的な生活など送れるはずもない。経済がどう回ろうが、国防費がどれほど増額されようが、国民が飢えていては国の意味がないのです。


■ 国家戦略の“逆行”を直視せよ

岸田政権が推進する「農業の構造転換」そのものは必要です。規模拡大、法人化、スマート農業の導入など、改革は必要です。しかし、そうした努力が市場開放によって土台から掘り崩されていては、全く意味がありません。

日米交渉での譲歩は、「米価が下がる」「輸入トウモロコシが安く入ってくる」という経済的な問題だけにとどまりません。それは、「農家をやめよう」という決断を生み、「もう農業を継がせない」という家庭を増やし、結果として農地が荒廃していくのです。

この“逆行”に政府は気づいていないのか、気づいていても黙認しているのか。いずれにしても、責任は極めて重大です。


■ 今こそ「食の主権」を問うとき

最後に、私がこの論説を通じてもっとも強く共鳴したのは、「食の主権」という言葉です。食料を他国に依存するということは、極論すれば“他国に生殺与奪の権を握られる”ということです。

外交で不利な条件を飲まされるたびに、自国の農業が痛めつけられ、国民の食卓が揺らぐ。そんな国に未来はありません。

私たちは、今このタイミングでこそ、食と農のあり方、そして憲法に定められた「生存権」とは何かを、改めて問い直すべきなのです。


■ 結語:農業は「希望」でもある

厳しい現実に直面する中でも、私は日本の農業に確かな「希望の芽」が育っているのを感じます。たしかに、耕作放棄地の拡大、農業従事者の高齢化、採算性の低さといった課題は山積しています。しかし、その一方で、逆境の中だからこそ生まれる創意と挑戦も確実に存在しているのです。

たとえば、若手農業者の中には、単に「農産物を作る人」ではなく、「ブランドを創る人」へと進化している人たちがいます。ドローンやセンサーを使ったスマート農業、インスタグラムを駆使した直販マーケティング、さらにはクラウドファンディングによる資金調達まで──彼らはまさに農業を“産業”から“ビジネス”へと昇華させています。

加えて、都市と農村をつなぐ「食育」や「体験型農業」の取り組みも着実に広がっています。子どもたちが自分で種をまき、収穫し、食べる。そのプロセスを通じて「食べること=命をいただくこと」という実感が生まれる。これは単なる教育ではありません。都市に暮らす人々が、農に“当事者意識”を持つための、最も根本的な一歩なのです。

農業は「過去の産業」ではなく、「未来をつくる産業」になり得ます。持続可能性が問われるこれからの時代において、「環境に優しい」「地域とともにある」「人を育てる」農業ほど、価値ある成長分野は他にありません。

国家が本気で支援すれば、日本の農業は再び立ち上がる力を持っています。単に補助金を出すのではなく、農業を“産業インフラ”として戦略的に位置づけ、官民連携で市場を創造する視点が今、求められているのです。

そして忘れてはならないのは、農業の未来を決めるのは、政治家や官僚だけではないということです。むしろ、本当の意味でこの国の食と農を変える力を持っているのは、私たち一人ひとりの“選択”です。

スーパーで手に取る野菜がどこで誰によって作られたのか、外食チェーンがどんな農産物を仕入れているのか、私たちの購買行動こそが、生産者の“明日”を決めるのです。政治的な声をあげることもそう、地域の直売所を訪れることもそう。どんな小さな行動でも、それは確実にこの国の農業の未来に貢献しています。

私たちが「命のインフラ」である農業の尊さに気づき、当事者としての声を上げ始めたとき、そこから本当の改革が始まります。

だからこそ、今この瞬間から問い直してほしいのです。

あなたの食卓は、あなたの未来そのものです。

野菜が高いからと輸入物に頼る、その選択が将来の国内農業を潰すかもしれない。食料自給率を軽視したままの経済政策が、あなたの子や孫を飢えさせるかもしれない。そんな時代が、本当に来るかもしれないのです。

今こそ、命の根幹を支える「農」と「食」に、真正面から向き合うときです。私たち一人ひとりの意識が変わることで、日本の農業は、そしてこの国の未来は、必ず再生できると私は信じています。

農業は、希望です。未来を耕す営みです。今こそ、私たち自身の手で、その希望の芽を守り、育てていきましょう。

🔗 参考元リンクはこちら

https://www.agrinews.co.jp/opinion/index/304159

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